自己紹介

1960年~1963年:神奈川県私立鎌倉学園高等学校

<鎌倉学園時代>

鎌倉学園は、最初1921年臨済宗建長寺派寺院の支援を受け、「鎌倉中学校」として創立、戦後に鎌倉学園(中学校・高等学校)となりました。現在の生徒数は約1,500名、教職員数 約120名。校舎は鎌倉五山第一位である建長寺の境内に隣接し、古都鎌倉の緑の山々に囲まれた豊かな自然環境の中に立地しています。建長寺は我が家の菩提寺でしたので、私は中学と高校の6年間を鎌倉学園で過ごしました。私の幼少期は身体が弱かったので、父の勧めで中学では剣道部、柔道部に入りましたが、中学3年生の時に自分の意思で野球部に入部しました。高校でも硬式野球部に入り、卒業まで「生粋の学園子」として野球に熱中していました。ある時、建長寺の観光客から鎌倉学園は毎年優勝候補になるけど「優勝できない優勝候補」という批評を耳にし、優勝して絶対に甲子園に行くと仲間に誓い、猛練習に挑みました。そして2年生秋の神奈川県大会で法政二校(前年甲子園優勝校)、さらに関東大会で作新学院を破り初優勝、3年生春の選抜高校野球大会で甲子園大会出場を果たし、準々決勝(ベストエイト)まで進みました。私は通算8打席(6打数)3安打2四球の記録を残すことができました。同年の甲子園優勝校は作新学院でした。ちなみに、同級生にはプロ野球で活躍した竹ノ内雅史永田善一、後輩には半沢士郎若田部健一、応援団には堺正章桑田佳祐らがいました。また当時、法政二校や作新学院は甲子園大会春夏連覇を果たしていましたが、法政二校の村上雅則投手(後に日本人最初の大リーガー選手)や作新学院の八木沢壮六投手(後にプロ野球選手・監督)とも対戦し、両投手からヒットを打っています(密かな自慢話)。

3年生夏の高校野球県大会では残念ながら決勝戦で敗れてしまいましたが、夏休み期間に野球部監督(英語教師)の福沢美々先生が(野球部員の卒業を心配して?)英語の補習授業をしてくれました。また在学中は野球部主将で4番打者、卒業後は慶応大学に進学していた柳田英弘先輩から英語の参考書をいただきました。柳田先輩は、学業でも成績優秀で、慶応大学に進学、さらに日本鋼管でも大活躍しており、鎌倉学園「文武両道」の教育モットーを実践する私の精神的な支えでした。鎌倉学園を卒業後、1年間浪人生活で猛勉強をし、中央大学に進学することができました。(『朝日新聞』「(青春スクロール 母校群像記)鎌倉学園:3師の情熱、学究の道へと導く」2016年12月16日

 

1964年~1968年:中央大学経済学部

<中央大学経済学部時代:1967年度くるみ2期総キャプテン>

  1. 学部時代の思い出:大学2年の体育実習の履修のために練馬グランドに行き、体育講師の桑原寛樹先生に始めてお会いした。授業終了時に、桑原先生から近所の喫茶店でスポーツ観の意見交換を求められ、それが契機で先生宅に下宿しないかと相談された。すぐに帰宅し両親の了解を得て、荷物をまとめて東久留米の桑原先生宅での共同生活に参加した。体育実習(ラグビー)の履修生たちも桑原先生宅で行われる集会に参加し、信州夏合宿を計画した。高校時代に色々なスポーツを経験したものが集まった。その後、夏合宿中に信州名産である胡桃の実を割って話し合ったことをヒントにラグビー・クラブ「くるみ」を誕生させたことである。
  2. 当時のベストゲームはどの試合か:1966年に国立競技場で行われた対エーコン(社会人)のナイター戦。同競技場でのラグビーは初めて実施されるので、自分たちでゴールポストを建てた。くるみ・クラブの中の各チームの代表がベスト・メンバーとして選ばれた。桑原監督の助言のもとで、フォワードとバックスの連携を密にし、浅いラインで連続プレーを心掛け、私が最初のトライをした。その試合は負けたものの、毎日新聞社の池口記者が「クラブ・スポーツの新しい芽」と題して高く評価してくれたことをいまでも誇りに思っている。その模様はNHKテレビのスポーツアワーでも紹介された。

 

1968年~: 中央大学大学院経済学研究科および英米大学への留学

<大学院基礎研究時代とその後>

中央大学経済学部を卒業した後、大学院に進学した。大学院時代には、川口弘教授のもとでA.マーシャル、J.M.ケインズ等のケムブリッジ学派経済学を研究し、1971年に経済学部の助手に選ばれた。1978年にケムブリッジ大学に留学してJ.ロビンソン、N.カルドア、P.スラッファ、L.パシネッティ等から薫陶を受ける。ケムブリッジ大学での経験は、『経済セミナー』(日本評論社1979年1月号と6月号)に紹介している。

1980年から2年間、米国ニュージー州立ラトガース大学に留学して、P.デヴッドソン、E.アイクナー等のポスト・ケインズ派経済学者と共同研究を行った。米国ポスト・ケインズ派経済学者と共同研究の詳細は、「アメリカにおけるポスト・ケインズ派経済学研究の動向」(『中央大学経済研究所年報』1992年第12号)に紹介している。その後、日本に「ポスト・ケインズ派経済学研究会」を組織して、内外の研究動向を整理し、『ポスト・ケインジアン叢書』を編集し、日本経済評論社から翻訳叢書刊行した。

その後、米国の環境学者レスター・ブラウン氏やT.オダム教授の生態学(Ecology)の視点を導入して、「生産の再定義」(生物学的生産の定義)を組み込み、また東京大学を定年退職した宇沢弘文教授を中央大学に招聘して、「社会的共通資本と社会関係資本」を研究し、それを基盤とした「生態経済学」を展開し、アジアでのフィールド研究を実施した。さらに中央大学経済研究所において「アジア地球環境フォーラム」や「国際シンポジウム」を組織し、政策提言を行ってきた。「アジア地球環境フォーラム」の議事内容は、同研究所の各『年報』に収録されている。米国の環境学者レスター・ブラウン氏は、ニュージャージー州立ラトガース大学の先輩であり、2005年に国際シンポジウムに招聘している。2015年3月に中央大学を定年退職し、過去20年間、ベトナムで共同研究を行ってきた経験を評価され、現在ベトナム政府・天然資源環境省戦略政策研究所(ISPONRE)の顧問に就任している。

(参照1)緒方俊雄:『「緑の経済回廊」とベトナム「道の駅」地域開発構想―回顧と展望―』中央大学経済研究所年報第48号、2016年9月

(参照2)Wikipedia<緒方俊雄>